受け入れやすさと、尊重することは違う
苦しい経験をした人ほど、他人の苦しみを理解できる。私たちは、どこかでそう信じたがる。しかし、現実はそれほど単純ではない。自分が受けた傷には敏感でありながら、異なる立場に置かれた人の困難には無関心でいることもできる。苦しみは他者への想像力を育てることもあるが、自分や家族を守ることに精いっぱいになり、かえって視野を狭める場合もある。経験したという事実だけで、人が寛容になるわけではない。その経験を通して、自分が尊重されるべきだったのと同じように、目の前の相手も尊重されるべきだと考えられるか。理解しにくい人や、好感を持てない人に対しても、同じ原則を適用できるか。そこには、経験とは別に、自分の感情や判断を見直す作業が必要になる。
社会が障害のある人を見るときにも、似た問題がある。自分の境遇を笑いに変え、場の緊張をほぐし、周囲に気を遣わせない人は受け入れられやすい。「明るく生きている」「前向きだ」「障害を言い訳にしない」と好意的に評価される。もちろん、ユーモアは本人の表現であり、人生を支える力にもなり得る。それを外側から否定するべきではない。ただし、周囲を安心させられることが、社会に受け入れられるための事実上の条件になっているとすれば、問題は別のところにある。
乙武洋匡さんが、自身の障害を自虐的な笑いとして語る場面に触れると、私は時折、複雑な気持ちになる。乙武さん自身が選び取った表現である以上、その生き方を否定したいわけではない。しかし同時に、笑いを通じて周囲の戸惑いを先回りして解消することを、これまでどれほど求められてきたのだろう、と考えてしまう。実際のところは分からない。それでも、障害のある人が自分を笑いの対象として差し出したときにだけ、周囲が気兼ねなく接することができるのだとしたら、そこで受け入れられているのは、その人自身というより、周囲に不安や負担を感じさせない振る舞いなのかもしれない。
同じ構造は、社会のさまざまな場面に表れる。たとえば、講演会や行政説明会に字幕や手話通訳を用意する話になると、「利用する人が少ないのに、そこまでする必要があるのか」という意見が出ることがある。だが、参加を難しくしている原因は、聞こえない人の存在ではない。音声を聞き取れることだけを前提として、場が設計されていることにある。これまで参加できなかった人が参加するための対応を「余分な負担」と呼び、その人がいない状態を通常の状態と考えるなら、見直すべきなのは参加しようとする人ではなく、最初から一部の人を想定していない仕組みのほうだろう。配慮を必要とすることと、周囲に迷惑をかけることは同じではない。
障害のある人や、その家族が社会に対して強い言葉を向けることもある。長いあいだ拒まれ、何度も事情を説明させられ、自分や家族の居場所を守るために訴え続けてきた結果として、言葉が鋭くなっている場合もあるだろう。もちろん、どのような言動も無条件に許されるということではない。ただ、表面に現れた怒りだけを切り取り、本人の性格の問題として片づけてしまえば、その怒りが生まれるまでに何があったのかは見えなくなる。穏やかに振る舞えるか、自分の境遇を笑えるか、相手に好かれるように話せるか。それらは、その人の価値を測る基準ではない。安心して受け入れられてきた人と、存在や要求を何度も拒まれてきた人に、同じ柔らかさを求めることもできない。
社会にとって接しやすい人だけを選び、その人たちを「立派に生きている」と評価することは、人の尊厳を守っていると言えるのだろうか?それは、周囲の居心地を乱さないという条件を満たした人だけを認める、選別に近い。人の尊厳は、明るさや面白さへの報酬として与えられるものではない。怒りを抱えていても、不器用であっても、周囲から扱いにくいと思われていても、尊厳そのものが失われるわけではない。自分の傷を知っていることと、他人の傷を見落とさないことは別である。その隔たりを埋めるのは、苦しんだ経験そのものではなく、自分に求めた尊重を、異なる誰かにも向けようとする内省なのだと思う。